いざ飛鳥へ③ なぜ6世紀7世紀に統一されたのか(When/Why編)

飛鳥に行ってからずいぶん時間が経ってしまったが、当初立てた記事タイトル分は書いておかないと・・・と思い、手短になるかもしれませんが続けます。

持統朝政権が西暦700年頃頃に”日本”と名乗るようになって、対外的にはこの国の形が定まったようだ。大王という呼称に代わって天皇と呼ぶこともこの時期に始まった。


「天皇」と記された最古の木簡(飛鳥資料館にて) 7世紀後半の天武・持統朝期の木簡。

どうしてこの時期に”国の形”が成立するのか。そこに至る一連の出来事は、継体天皇が即位した西暦500年代初頭に始まるようだ。継体天皇はその前の天皇家の血筋から大きく離れ、約200年を遡って祖を一にすると選ばれた人物だ。曽我氏がバックアップして、曽我氏が政権中央に大きな勢力を築くことになる。

ではなぜこの時期なのか、それはもっぱら大陸側の動きが激しくなったためらしい。”外交”あるいは戦力を整備するためにも国という形を整えることを余儀なくされた。

それでは大陸側の動きがこの時期に激しくなったのはなぜか。詳しく調べたわけではないが、西暦1~2世紀頃の地球寒冷化によって南下した北方の騎馬民族によって朝鮮半島や中国は言わば攪乱されることになったらしい。この影響が卑弥呼の登場を促したという説もある。そして中国はさらに西方との関係も動きが激しくなる。日本に仏教が伝来したのは6世紀中盤といわれるが、孫悟空で名高い玄奘三蔵一行が天竺から仏典を唐に持ち帰ったのは645年である。このお経の中には我々もよく耳にする般若心経も含まれていた。日本には、中国でもほやほやの仏教情報がもたらさせていたわけだ。

つまり日本が成立した時期は、アジアだけでなくユーラシア全体で地域相互の関係が大きく揺さぶられる時期に重なる。いわば地球が急に狭くなった世界的な動きに連動しているようだ。

こうした見方に、偏りや誤りがどの程度入っているかは分からない。でも今後、調査はさらに進んで物証を伴って歴史がもっと明らかになってくるに違いない。それまで生きていたいものだが・・・。

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