いざ飛鳥へ① 西暦700年頃に”日本”という国家を定めた中核の地へ

2023年12月、奈良の飛鳥を訪ねた。
6世紀から7世紀にかけて日本という国があの地で成立した。その「日本という国の成立」に関する5W1Hを体感しに行く旅たった。

“家族”が邪魔でも、もはやヒトの遺伝子に刷り込まれている

私の興味の発端は、家族そして国家などに関する“嫌悪感”だった。

この二つのうち、まずは「家族」が興味の中心だった。現代人を執拗に縛り付けている。家族という概念に縛られることのデメリットばかりが肥大化し、メリットはほとんどなくなっていると感じていた。人類にとって家族が不可欠だったことは、京大のサル学がかなりクリアに教えてくれた。人類が生き延びて生物学的な種として発展を遂げるために“家族”は大きな役割を果たしてきた。しかし、もはやその必然性を生んだ環境は今では様変わりしている。現代でも必然性があるのか、疑わしい状況になっている。

しかし人類にとって、家族は人類発祥の時代から個人と切り離せない数万年の歴史がある。人類が生き延びるために家族という仕組みが生まれ、そのおかげで人類は急激な発展を遂げた。今となっては、必要だろうが不要だろうが、もはや遺伝子に刷り込まれている生き方なのだ。

昨年まで少しの間だが関わった精神科救急調整という仕事は、家族や地域社会の現状が生み出した傷口を、もはやおぼろげな姿になり果てている家族や地域社会を否定することなく、その傷口をむりやり「家族や地域社会」とラベルが張られた絆創膏で応急手当をするようなものだった。関係者の苦労はたいへんなものだが、悲しいかなその努力は「賽の河原の石積み」のようにむなしい結果が繰り返される仕事でもある。

こうした家族に対する問題意識は、今後も広がり大きくなる一方だろう。本当にどうなるんだろう・・・。生成AIに問いかけたところ、「旧来的な家族が崩壊寸前なのはそうかもしれないが、“家族のようなもの”として多様性を増し、それをベースにして人は生きていくことになる」というのが一応の結論だった。そうかもしれない・・・。閉塞感はぬぐえないが・・・。今後少なくともしばらくは、”家族の在り方”をヒトは模索し続けるしかないのだろう。

“国”への帰属が始まったのは極く最近の出来事

一方、もう本当に投票先が見当たらない選挙、将来について語ることから逃げているばかりの政治、国なるものの礎であるはずの税金も、その使い方はタガが外れた(たとえばふるさと納税ってなんだろう。民衆に迎合するために、国が税金を適切に使うという責任を放棄している)。

国ってなんだろう、国がある意味ってなんだろうという疑問にぶち当たる機会がとても増えた。国内政治もそうだが、ウクライナ問題、トランプ現象、パレスチナ問題、国連の無力・・・。国というものの存在意義があるのか、むしろデメリットばかりではないかと思わせることが増えている。

”国家”という概念は、”家族”に比べれば古くない。せいぜい数千年、この島国に「日本」という名前が付いたのは西暦700年頃、たかだか1300年前でしかない。その舞台は、奈良の飛鳥界隈だ。なぜこの時期に、どうしてこの地に、どういう登場人物がいたのか・・・、このような国家成立の5W1Hを体感することが、今回の奈良行きの目的だった。

長谷寺駅から、三輪山の方を望む(雨模様の朝)



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