いざ飛鳥へ② どうしてここが国の中心地になったのか(Where編)

今回飛鳥の地に行ったのは、「日本という国の成立」に関する5W1Hを体感するためだった。最大の疑問 は、どうして奈良が中心地だったのかという点だ。残念ながら現在の奈良は、大阪から見ても京都か ら見ても、”奥まった場所にある。ちょっと遠くて、辺鄙という感じさえある。 

近鉄線で古代の幹道を体感 

この場所を体感するために、今回は名古屋から近鉄大阪線に乗り換えて、奈良の入り口であえる桜井 市に入った。桜井市はすぐ西が飛鳥、北側には奈良のシンボル三輪山がきれいなシルエットを見せる 古代の中心地だ。三輪山のすそ野に卑弥呼がいた邪馬台国の都ではないかととも言われる纏向遺跡が 未発掘の地を多く残して埋もれている。

 桜井市から東に向かう初瀬(ハセ) 街道が東国への入り口だったようだ。真東には伊勢神宮があっ て、江戸時代に至るまで関西人が伊勢参りする街道だったらしい。現代では、名古屋や伊勢、奈良、 そして大阪を結ぶのは近鉄だ。今回の旅ではたまたま名古屋で近鉄に乗り換えたが、実際に乗るま で、この古代の道を近鉄が独占していることに気付かなかった。


飛鳥から真東に向かう初瀬(ハセ)街道がこの谷間の左右に走る(長谷寺駅直前の車窓から)。
真東の位置に伊勢神宮がある。この道を、壬申の乱の折には大海人皇子も通っていったん伊勢に陣を構えたのか。


とにかくこの初瀬街道を辿ることで、飛鳥界隈が当時の東国への入り口を押さえていたことが分かった。では西側はどうなのか。

大阪は巨大ラグーン、奈良の中心は湖に没し山裾に沿って都が成立

今回の奈良への旅の初日は、大阪の「難波宮(ナニワノミヤ)跡」を訪ねることにした。桜井駅から、再び近鉄大阪線に乗って、鶴橋駅に降りた。降りて改札口に出たとたん、驚いた。赤い灯りが蠢くような飲食街だ。焼き肉屋が密集する韓国料理のメッカだった。まだ朝の11時前というのに、多くの店がすでに営業を始めている。

飛鳥に都ができたころ、朝鮮半島さらにはその向こうの中国との国際関係が緊張の度を深めていた。それは百済や新羅、隋や唐の資料にも記されていて間違いはない。それに応じて、難波には多くの渡来人がやってきた。鶴橋の迫力ある韓国料理街は往時の渡来人がそのままいるような白昼夢を見せてくれた。

さて鶴橋駅から難波宮跡までは、自転車でほどない距離だった(実は今回の旅には14インチの折り畳み自転車を帯同して、電車に持ち込んで駅で降りると組み立てて走り回る方法を採った)。

難波宮跡は、大阪城跡に隣接する位置に、広々とした敷地をほぼ裸で見せていた。遺跡は大阪城跡に一部重なっているらしい。この地に、なぜ大和から一時期にせよ都を移してきたのか。

今度は難波宮跡に行くために近鉄で難波行きに乗って鶴橋駅で降りたら!! 薄暗く真っ赤っかな感じの横丁は韓国焼肉屋が連なっていた。
難波宮ができた頃に渡来した半島の人々の子孫が今もここで活計を立てているかのよう。
まだ朝の10時40分なのに、多くの焼き肉店はすでに営業中。

それは広大な敷地の端に座って、スマホであれこれ検索するうちに、ほぼ明らかになった。往時、大阪はほぼ水の中にあったらしい。そして難波宮や大阪城のあるあたりは、その入り口をふさぐように南岸から北に伸びた半島の先端にあったようだ。5世紀6世紀の正確な地形は(完全に調べていないので)まだ分からないが、要は現在の大阪は先端に半島がある巨大なラグーンだったらしい。生駒山脈など奈良との境にある山々はそのラグーンに面する位置だったらしい。つまり、瀬戸内海を渡ってきた船はラグーンに入り、上陸すると山一つ向こうが奈良の地だったのだ(もしかしたら往時はすでにラグーンは閉じられて、湖になっていたかもしれないが、大阪は水と湿地帯の場所だったらしい)。

さらに、奈良の地も水びたしだったようだ。少なくとも中心地は湖になっていて、さらに湿地帯が広がっていたようだ。そして人は周辺の山裾に耕作地や都を構えたのだ。箸墓古墳や纏向遺跡は東側の三輪山の山裾にある。飛鳥宮や藤原宮は、奈良の南の吉野の山裾の端にある。

これで、「日本という国の成立」に関する5W1Hのうち、”Where"についてはほぼ解けたように思う。検索すると奈良も大阪も水があふれていたという記述はたくさん出てくるが、5世紀の地形はこうなって、6世紀にはこうなって、というような具体的な姿はよく分からない。真否のほども、確かめようがない記述が多い。



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